黄庭堅「雑詩」詩

 迷いのなかにあったときは、今日も昨日と同じ、今年も昨年と同じといった底の、変わりばえのない平々凡々たる日々だった。けれども、それは悟った後も同じなのである。  食事にも衣服にもその事柄に応じて対処してゆく、そうした何気ない日常にこそ、実は達磨以来の禅の本旨があるのだ。  迷時今日如前日、悟後今年似去年。  随食随衣随事辦、誰…
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呉梅村「読史雑感(其三)」詩

 ※呉梅村は呉偉業のこと。明末清初の詩人。本詩は南明の亡命政権のありさまを詠んだもの。  後漢の北寺の獄みたように讒言によって士人を獄中の人とし、同じく後漢時代、西園で職位を売買したように賄賂で官爵を拝する。  上書があっても賊を討とうともせず、皇帝擁立に功のあった家臣を昇進させるばかり。  宰相は自らの邸宅の建築に血道を上げ…
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小野湖山「冬夜読兵書同林鶴梁賦」詩

 冬の夜、兵書を読み、林鶴梁と詩を賦す  風がやみ雲がしりぞいて、銀河が横たわり、青黒い海のごとき夜空の模様はひときわ凄涼としている。  声を抑えて詩を吟じ、ちびりちびりとやるのは憂いを消すのに十分だし、夜が尽きなんとする頃の何もない窓辺は軍事を談ずるのに最適だ。  白々と光る月のもと、雁は一糸乱れず飛んでいき、寒さに冴え渡る…
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大沼枕山「御城」詩

 江戸城  太田道灌が造営したのはたった一部のみである。雄大な城は広闊で、もうほとんど金城湯池といってよい。  建物部分には松、お堀には柳が植えられ、鶴が優雅に舞い、亀が悠々と泳ぎ、その嘉すべきありさまを拝するにつけ、沸々と楽しみが湧き上がってくるのである。  道灌経営只一傍、大城弘敞幾金湯。  館松渠柳高低裡、鶴舞亀游…
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小野湖山「太田道灌借蓑図」詩

 ※本詩は有名な「山吹の里」伝説を題材とした絵画を詠んだもの。  「太田道灌 蓑を借るの図」  心ゆくままに狩りを楽しんでいるうち靄のうちに入り込み、村はずれの小玉の家で雨宿り。  情を抑えてものを言わないのはもの言うに勝る。蓑を貸すよう迫る道灌に対し、小玉は黙したまま「言葉の話せる自然の花」(山吹の花)を差し出したのだっ…
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板倉中「読書」詩

 読書  寒風があばら家に吹き込み、冴え冴えとした月光がわが心を照らす。  書斎の窓の下で独り書物を繙き、歴代の栄枯盛衰を眺めるにつけ、深い感慨を禁じ得ないのである。  読書  厳風侵白屋、寒月照丹心。  独座書窓下、興亡感転深。  ※下平声・侵韻。                   (『春峯詩稿』)…
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勝海舟「偶感」詩 

 たまたま感慨が起こる  声を上げないほうがむしろ声が大きく、静黙は多言に勝る。  はるか天空の孤独な鶴は、日の出に向かって高く飛びゆくのである。  偶感  無声声却大、淵黙勝多言。  雲霄一孤鶴、高舞向朝暾。  ※上平声・元韻。               (『海舟全集』第10巻)
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蘇洵「利者義之和論」

「利は義の和なり」の論  「義」というものは天下の人々を適切に整えるもの(「宜」)であると同時に、天下の人々の心に逆らうものでもある。なんの工夫もなく適切に整えようとすると、当然、天下の人々の心に逆らうことになる。小人を適切に整えるのか?それとも君子をそうしようとするのか?君子をそうしようとするのであれば、一番正しいやり方でやれば…
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長岡護美「雪夜」詩

 ※長岡護美(ながおか・もりよし)は明治期の外交官、華族。  雪の夜  周囲には人の声もせず静まりかえり、清らかな響きが竹林から聞こえてくるばかり。  その静寂を破り、月明かりに驚いたヤマガラスが鳴き、それが渓流のほとりのあばら家にまで響いてくる。  華族の身でありながら寒さに苦しみ、火鉢を前に孤独をかこつ。  貧乏人…
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板倉中「丁丑十二月…有作」詩

 ※板倉中(いたくら・なかば)は明治期の政治家。上総国出身。  明治10年12月11日、たまたま警官に嫌疑をかけられ、五日間拘留された際にできた詩    扉に叩きつけるような風のせいでなかなか眠れず、雨水が窓の隙間から吹き込み、ふと愁いにとらわれる。  だけれども人生は逆境ばかりだとか言いなさんな、心に正義があれば自ずと泰然…
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王通『文中子』周公篇第二十五則

 あるひとが仏陀について尋ねた。  文中子が答えた、「聖人である。」  さらに尋ねた、「その教えはいかがでしょう?」  文中子が答えた、「西方の地の教えである。中国では実行できない。貴族の乗る軒車(けんしゃ)は船が主たる交通手段である越の地では用いられないし、高官の被る冠冕(かんべん)のかんむりは、そもそもかんむりを被る習慣のない…
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揚雄『法言』問明篇第七則

 あるひとが言った、「ひどいことだな、聖人の道〔儒教の教え〕が凡人のプラスにならないことは!聖人の書物を読んでも行いは平凡。これでは聖人の書物なんかなくてもいい。」  (揚雄が)言った、「ひどいことだな、あなたの不見識さ加減は!聖人の書物を読んで行いは平凡だったとしても、それでも聖人の道を知ることはできる。これをなくしてしまっては…
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横井小楠「臘月念五日」詩

 12月25日、藤田子登(東湖)が酒宴を開いた。そこで諸藩の友人と同席した。そこで七言古詩を賦して志を述べる。痛切に批判をいただければ幸いである。  故郷はお互いに千里の彼方に隔たっているけれど、ともに酒席を囲むと笑って心中を吐露し合う。  樽一杯の酒は醸造したてのもの、それと併せて「道」の味わいも噛みしめるのだからまことに愉快…
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小島守政「読枕河詩鈔」

 『枕河詩鈔』を読む  市河寛斎(※1)の江湖詩社、梁川星巌(※2)の玉池吟社は当時において文壇をリードした結社であったが、それに次いで興起したのが大沼枕山夫子の下谷吟社である。大沼夫子の詩は世に並ぶもののないもので、社には才能ある者たちが数多集まり、江湖・玉池に比すると、それを越えることはあっても及ばないということはなかった。そ…
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陳乾初「昔我」詩

 むかし、わたしが…  むかし、わたしが病にかかった時には母がいつも看病してくれた。  いま、わたしが病にかかっても母はもういない。  息子や娘はいるけれど、母の気配りの丁寧さや細やかさにはかなわない。  医者や薬はあるけれど、母の言葉の懇ろで真心の籠もっているのにはかなわない。  母が亡くなった今、誰を頼りにすればいいの…
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小島守政「寄河口枕河先生書」

 ※小島守政(1855~1918)は幕末維新期の多摩郡小野路村の名主。河口枕河(1829~1906)は古河藩の蘭方医・漢学者。  河口枕河先生への手紙  守政、再拝して河口枕河先生に申し上げます。  兼ねてからご高風を慕っていましたが、いまだお会いする機会がないうちご病気と伺い、毎日気をもんでおりましたが、元の通りお食…
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朱子「夜宿方広……」詩

 夜宿方広聞長老守栄化去、敬夫感而賦詩、因次其韻。  拈椎竪拂事非真、用力端須日日新。  只麽虚空打筋斗、思君辜負百年身。  夜、方広寺に泊まったところ、守栄長老が示寂されたと耳にし、張敬夫が感慨を起こして詩を賦した。そこでそれに次韻した。  椎を取りあげ払子を起てるような紋切り型の応酬ばかりでは真実のやり方とはいえ…
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山田知足斎「得家書二首」詩

 一封書寄自家山、草草開緘剪燭看。  二十余行無別語、先言勤学後加餐。  人若非為羈旅生、誰知尺素貴於瓊。  請看僅僅数行裏、写出千糸万縷情。  実家からの手紙 二首  一通の手紙が故郷から送られてきたので、そそくさと開封し、灯を切って読む。  二十行あまりの手紙だが、書かれていることは二つだけ。まず「勉強に励み…
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永山亥軒「京寓中得譴」詩

 丈夫立志起頽風、何厭投身鼎鑊中。  堅忍祇応持国是、汨羅溺死不誠忠。  京都に寓居中、譴責を被る  大丈夫たる者志を立てて衰えた風俗を奮い立たせねばならない。身を刑死の場に投げ入れることなど、厭うところではない。  堅くお国の方針を持する必要がある。それをせず屈原のように自ら汨羅江に入水自殺するなど忠誠な態度とはいえな…
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伊藤博文「訪松下塾」詩

 道徳文章叙彝倫、精忠大節感明神。  如今廊廟棟梁器、多是松門受教人。  松下村塾を訪れる  吉田松陰先生の道徳と文章とは人倫の道を実現せんとするものであり、真心からの忠義と高き操とは神をも感動させた。  現在、朝廷のリーダーとなっている人々は、その多くが松下村塾にて教えを受けた門弟たちである。          …
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